山本空外 著
『生命(いのち)を讃える』
( 以下誠に勝手ながら本文中より抜粋+)
「南無阿弥陀仏(なむ あみだ ぶつ)」という言葉は、一息で言えるんですね。
人間が生きているというのは、一息ごとに生きているので、こうして話している間にも、亡くなる人があるんです。いま元気に生きている人でも、急に終わりになる人があります。若くても、年をとっていても、明日も自分に限ってなら生きられる、と言える人はだれもいないんですよ。明日のことは明日で、もう今晩のうちに亡くなるかもわからぬし、あるいは、これから十年生きられるかもわからぬ。自分にわかるのは、このように「一息、一息」で生きている、ということしかないんです。「今」ということです。
それで「南無阿弥陀仏」という、「今、一息」で言える言葉の中へ、もう仏教もキリスト教も、哲学も芸術もですね、みなおさまるものなんです。おなまらなけりゃならぬものです。「今を真実(ほんとう)に生きる」ことで、絵もかき、字も書き、焼物もつくったり、またいろいろ竹細工もしたりして、そういうようにして、一息ごとに仕事を全うしていく、それしかできぬのです。
それで、「南無阿弥陀仏」という言葉は、どうしてかインド語で初めてできたんですね。「南無阿弥陀仏」は、インドのサンスクリット語です「nam'amita Buddha」。
寝ていても、私どもは、ただ寝ていると思うけれども、そうじゃないんです。自分が吸う空気を心配することはないし、心臓を自分の力で動かしているんじゃないから、みな「おかげ」で、心臓も動く、空気も吸えるんでしょう。その「おかげ」のことを「阿弥陀(あみだ)」さんと言うんです。
サンスクリット(梵)語で、
「南無 nam ナム、namas ナマス namo ナモー」は、屈曲、頭を下げて礼拝するという意味で、
「阿弥陀(amita)アミタ」というのは、「計算ができない、量られない」という意味です。
「仏 Buddha ブッダ」は、サンスクリット語の動詞 budh ブドフ 「覚る、目覚める、わかる」の過去分詞形ですから、「覚られた、目を覚まされた、わかった」です。
つまり、私なりの生活を全うする、そういうことなんでございます。
『念仏と生活』-般若心経を生きる-
(昭和四十七年七月・長野県鉢伏青年別時会のご法話から)
(以下誠に勝手ながら本文中より抜粋+)
「無」というのは、「ない」という意味ではない、「計算ができない」という意味ですよ。(縁起に拠る空)
「ナムアミダ仏」というのは、我々が生き得ている、命の根源を指す言葉です。心臓も自分が動かすのじゃないが、動いています。手足も動くようになっているし、目も見え、頭も働いているのですが、そういうふうにして内外そろって生き得ている、その命の根源を「アミダさま」というのです。普通はその「アミダさま」のおかげをわからずに生活しているのです。ただ、自分勝手に生活していたのが、命の根源の「アミダさま」のおかげを悟って生活するようになると、勇気も百倍するし、少々の災難もさほど気にならないようになるのです。
理屈じゃなく、実感が伴ってくるのです。自分は「アミダさま」のおかげで生きられているということに気がついて、そうすると「アミダさま」を拝むのは、自分を拝むことにもなるのです。同時に自分を拝むのは、「アミダさま」を拝むことになるのです。
仏さまを拝むことが自分を拝むことになるとわかると、天地の命とつながって、本当に「大自然を生きる」という道が開けてくるのです。そういうことを「ナムアミダ仏」というのです。そうなるとマイナスが最小になる。プラスは最大になるのです。例えば盲目ということはマイナスだけれども、それが最小になる。余り苦にならぬようになるのです。
「ナムアミダ仏」が最初に出てくるお経は「観無量寿経」というお経です。簡単に「観経」ともいいます。このお経に初めて「ナムアミダ仏」を称えるということが出てきます。「称南無阿弥陀仏」という言葉が出てくるのです。それまでは、「ナムアミダ仏」という言葉は、どのお経にも出てこないのです。皆様は、お釈迦さまが初めて「ナムアミダ仏」と言われたのじゃないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。お釈迦さまは、ご存じないのです。
「アミダさま」というのは、我々の命の根源ですからね。命の親さまの懐に飛び込んだ音です、「ナムアミダ仏」というのは。命の親さまというのは、不思議ですね。寝ていても、心臓は回っているのです。また、春には春の花が咲くように、夏には夏に咲く花がある。不思議です。そういうふうになっているのですから、私ども一人ひとりが一人ひとりなりに生きられるようになっておるのです。
それで、わかる、悟るということは、「アミダさま」の窓が開くということです。そうすると、大自然の命が照らしてくる。照らしてくるというのは、自分の実感しかないのですね。
人間が生きるということは、本当は受け身ですよ。生きられているのです。
お念仏は「アミダさま」の近くに座って、「アミダさま」と対話することなのです。自分の命の親と対話をするのです。自分の生きていることの深さを感じ取って生きていくわけですね。大自然を生きるという味わいを一人ひとりなりに悟っていくのですね。
お釈迦さまは、「ナムアミダ仏」をご存じではなかったから、縁起を悟るのに、六年もかかられた。二十九歳のときから三十五歳までの六年です。二十九歳のとき出家されて、三十五歳の成道です。あれほど偉い方が六年もかかるのですから、普通の我々は、十年たっても悟れません。
それで、六年もかからずに、すぐ悟れるようにならないものかというのがその後の仏教の展開です。縁起の悟りが仏教の根本、根本仏教なのです。その根から幹が成長し、枝葉が茂り、実がなった。しかし、この実が高い枝にあったのでは、木登りの上手な人しか、取って食べられない。だが、これが熟して、地上に落ちると、身体の不自由な人でも取って食べられますね。
仏教が縁起の展開をして、そして、一つ生った実が高い木の枝にある。それが熟して地上に落ちた音に当たるのが「ナムアミダ仏」です。そうすると、身体に障害のある人でも、死に際の人でも取って食べられます。仕事に追われてる忙しい人でも、「ナムアミダ仏」は言えるのです。平等にお釈迦さまの悟りが身につくことになるのです。だれもが悟れることになる、それが「ナムアミダ仏」なのですね。
「般若心経」の中には、仏教の大事な言葉はほとんど、書かれている。ないのは、「ナムアミダ仏」だけです。なぜかというと、まだ「ナムアミダ仏」という言葉ができていないときに成立したお経だからです。
呼吸をするためには、木だけでなく、海の底の海藻類も、みんな酸素を出しているのですね。それをヘドロでつぶしている。
木を切って観光道路をつくる。ジェット機が一機飛んできても、莫大な酸素を費やすのに、それが来るために、さらに木を切ったり、また飛行場をつくるために、海を埋め立てて、海藻類をおしまいにしてですね、酸素を今までの何倍も使う上に、他方では酸素源になるものを、みんな切ったり、つぶしたりするのだから、これはもう、人間いつかおしまいになるのに決まっています。それほどむちゃなことばかりしているのです。全く人間不在です。我々が生きられるもとの大切な一つである酸素源を、人間自体は増加するのに、かえって余りに浪費している。それが科学の知恵ですよ。実に考えが足りない。これはどうしても、悟りの智慧で、そこを大きく深くしていかないといけないですね。それが自由自在ということです。
その自由というのは、自分勝手にできることではありません。むしろ自分勝手にはできない。道路や工場用地など自分勝手に木を倒したり、海を埋め立てしてできるように思うでしょう。ところが後で大水が出てですね。せっかくつくった道路も、建てられた家もみんな流れたり、また水不足になったりして、後でおしまいになるのです。こういうことだけではないのですよ。我々の毎日の生活、仕事がみんなそうなりつつなるのです。自由というのはそんなのではなく、ものを生かし、自分を生かしていく、自分と相手が両方とも、全うされていくのが自由です。
病気になって、苦にするのは、自由ではないですよ。病気をしなければわからないことを悟っていくのが自由ですね。病気に取り組む姿勢が自由なのですよ。
そういうように、私どもは何事に出会っても、悪口に出会っても、病気に出会っても、戦争に負けても、そうでなければわからないことがありますからね、そういうことを悟っていけば、豊かな生活が深まっていくわけです。
唯物論者や共産主義者は、日本に天皇陛下はおられなくていいと思っていますね。それは計量するからです。計量できない部分があるのです。例えば、日本の敗戦の後、天皇陛下が占領軍司令官のマッカーサー元帥を訪ねられたとき、初めはマッカーサーは玄関にも出ずに威張っていた。他国の皇帝のように、自分の命だけは助けてくれと言うのじゃないかと思っていたのです。ところが、陛下は、自分はどうなっても構わないが、国民が餓死しないように食糧の支援を頼むと言われて、自分の財産目録を出されたのです。そのときマッカーサーは、人がいなかったら抱きついてキスしようかと思ったと言うのですね。マッカーサーは陛下の言葉で目が覚めて、それから日本に対する占領政策は一変したのです。日本人みんながそのために餓死せずに済んだのです。計量ばかりしていたらそういうことはできないでしょう。本当は計量できないところが大事なのですね。
色は計量ができます。私の顔だって、縦が何ミリあるか、横が何ミリあるか計量できますが、空、つまり計量し切れないところがあるのです。
つまり仏さまのありがたいところは計量できないところにあるのです。
「空こそ色なれ」というのは、おかげがあってこそ計量できる分野が成り立っているということです。科学の世界は科学が作り上げたのではないのですよ。大自然の命の中で計量のできる分野に取り組んでいるだけのものです。だからこそ「空こそ色」なのです。私自身の命が、こういう体の上からいえば計量できる形で現れているのです。
そして、「無智亦無得」です。智がないといっても、「般若心経」の般若というのは智慧のことですね。その智慧がないというのはどういうことか、消しゴムで消したようにないという意味ではなしに、どんなに深くでも悟って行けるということです。自分が今悟ったのが悟りの全部ではない。
心に得るところが本当はあるのです。それがどれだけと決まっているわけではないのです。それで「無得」というのです。
ただ、惜しいかな、「ナムアミダ仏」は広まっただけに誤解が多くて、誤解の方で帳消しになっているのです。笑い事みたいになっていて、まじめな人が本気で聞かないようになっているのです。だからこれを本来の、「ナムアミダ仏」の根本義に帰して我々が行じていくのです。
せっかくの世界一の宝を誤解のまま葬るか、あるいは本来の意義に帰して認識を新たにして人類が救われるよりどころにするかの境に、今の我々は立っているのです。
以上。